ジェミニジェット、インフライト、ホーガンやライズスーン等のメーカーが航空モデルの代表格ですが、1980年代は、まだこれらのメーカーの商品は流通していませんでした。唯一ヘルパが、ミニカーから派生してヘルパウィングスを立ち上げて1/500で販売開始するのは、後半になってからです。
この年代に、既に社会人デビューをしており、顧客向けギブアウェイを社内で見掛けたのがディスプレーモデルとの出会いです。
Air Jetというアメリカのメーカーで、黒いプラスチックスタンドの裏に住所を印刷したステッカーが貼られていました。場所は、マイアミ。日本からは遠い場所です。
現在のPacminに近いディティールで、車輪こそ無かったものの、かなり満足のいく出来栄えでした。このメーカーを訪問してみたい衝動に駆られました。その後計画を実行に移すまでにはそう時間が掛かりませんでした。
ニューヨークJFK空港まで飛び、当時飛んでいたイースタン航空のトライスターでマイアミまで飛びました。
レンタカーを駆使して、市内の同社工場へ。 15分程度のドライブとかなり近かったことを覚えています。
今では、カーナビが当たり前で、海外でも使ってみると簡単に目的地に辿り着きます。今から思い起こしても、どうやって観光地でもない小さな模型工場に行けたのか。
レンタカー屋さんで、地図に印を付けて貰って動いたのでしょう。自分で実行した事ながら、謎めいています。
随分前の事で名前は忘れてしまいましたが、女性社長が出迎えてくれ、若造にも関わらず遠路日本から来たというだけで、親切に案内してくれたものです。
工場は決して大きくはないのですが、製造工程によって部屋が分かれており、手作業である程度の量産体制は整えられていました。ベースの色は塗装なのでニスの匂いが強かった事が記憶にあります。沢山の未塗装モデルが、セミのように吊るされて乾燥する様子は、微笑ましいものでした。
一番興味のあるのは、デカール製作の部分でしたが、さすがにその部分はシークレットとのことで、外部から一部だけ覗かせて貰っただけです。
大きな印刷機のようなもので、オリジナルで製作していたようです。
最後は、お客様もお迎えするショールームに案内され、15機程のモデルを購入し、輸出航空貨物として成田に向けて送った部分は鮮明に記憶しています。何故かって・・・航空運賃が結構高かったからです。
今では、このモデルは一機もありません。友人に分けてしまったのと、唯一保管していた最後の一機も、人手に渡ったのです。その行方とは・・・。後編に続く
コメント